ココア(修正)

 今日もまた、立派な学生としての一日が始まる。靴を履いて、家を飛び出したのは私、「難病 リー(むずやまい りー)」大学一年生!

 しかし、高尚な志を抱いて大地を踏みしめた私を、巨大なビル達の合間を縫って、真っ白な光が嘲笑うように私の顔面をぐちゃぐちゃに殴ってきやがった。まだ午前の八時だというのに、光る事しか能のないしょうもない恒星は、どうして一日の終わりのような朝日を放っているのだ──と一瞬私は考え、同時に酷く厭世的な気分を覚えたが、朝日と夕日を生産しているのは同じ太陽であり、またそれが「光る事しか能のない」所以である事を思い出し、蓋を開けかけた自決用毒入りココアを、そっとカバンに仕舞い込んだ。

 かくして私は愛すべき我が学び舎、「鬱鵺獣医科大学(うつぬえじゅういかだいがく)(偏差値75)」へと辿り着いた。ここは日本唯一の雀と出目金、チンアナゴの研究を専門とする国立大学である。鵺については学べない。

 門をくぐり、講義室に入り、席に着き、講義が始まるまでじっと座って時間を潰す。が、しばらくしているうちに、私はこの虚無な時間が我慢ならなくなった。鞄に入れてきたプレイステーション1018──奇しくもまふまふの誕生日と一致している──を起動したいが、怜悧な鬱大生(鬱鵺獣医科大学の学生のこと、あるいは鬱病を患っている大学生のこと)である私は、学園の規則を破ることのない娯楽を探すことにした。人間という生命体がこの世界に誕生した時から存在する娯楽、それは首を曲げることである。これなら大学の講義室であっても実行することができそうだ。

 まず初めに左側を向いてみる。しかし現実とは非情なもので、そこにはただ長机が部屋の端まで続いているだけだった。思えば私が所属している獣医学部雀医学科は本学の中でも突出して人気がなく(教授が全員雀であるため)、生徒数が少ない。私は少しがっかりしながら再び前を向き、今度は右側を向いてみることにした。

 するとどうだろう、一つ席を挟んで、とんでもない美少女が座っているではないか。彼女は「詐欺孔雀 ニャ子(さぎくじゃく にゃこ)──素晴らしくきゅ〜とな名前だ──」。本学のアイドル的存在にして、YMOの設立メンバーでもある。そして私はニャ子ちゃんに、密かに思慕の念を抱いている。でも臆病な私は、今まで一度も声をかけたことがない。せっかく同じ学科に属しているというのに......

 しばらくその雀のような目──あるいはチンアナゴのような目(出目金や鵺の目ではない)──に見とれていると、彼女はリュックサックからペットボトルのココアを取り出し、蓋を開け、飲み口にそっとキスをして、口の中をココアで満たしていく。その姿のなんと美しいことか。

 しかし、私も同じ物を飲んだことがあるから知っている。そのココアはあまり美味しくないということを。ニャ子ちゃんも今同じことを考えているのかな。もしそうだったら嬉しいな。うん、きっとそうに違いない。大好きな彼女の頭の中を窃視してしまったみたいで、いつの間にか私は興奮状態に陥っていた。すると凝視されていることに気付いたニャ子ちゃんが、私に声をかけてきた。

詐「あのぉ、どうかされましたかぁ......?」

チャンス到来。私もついにニャ子ちゃんと話しちゃうぞ!!!

難「あっ、あ、あっっっその、ココアッ、お好きなんですかっ......?」

完璧なコミュニケーション。

詐「え?えぇ、まぁ好きですケド......。」

チャンス到来。ココアを介してニャ子ちゃんとお友達になっちゃうぞ!!!

難「あのっ、ココア、あるんですけどっ、飲みませんか......?」

詐「えっ、本当ですか!飲みたいですぅ。」

なんて軽率で不注意な女なんだ。だが計画通りに事が進んで、ありがたい限りである。私は鞄からココアが入った水筒を取り出して彼女に差し出すと、先ほどと同じ様にココアをごきゅっ、ごきゅっと摂取し始めた。

詐「ぷはっ、結構おいしぃですね!」

難「えへっ、嬉しいです......。」

詐「なんか初めて飲む味なんですケド、これってどこのココアなんですか?」

難「あっ、それはっ、私が色々ブレンドして作った......」

色々ブレンドして作った......何を入れたっけ............??

 

 はっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 そのココア、毒入っとるやんけっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

しかしもう遅かった。

「あ゛っ......か゛は っ......」

ニャ子ちゃんは突如激しく咳き込み始めたかと思うと、椅子から崩れ落ちた。

「ニ゛ャ子゛ち゛ゃん゛っ!!!!!!!!!!!!!!!!!!ニ゛ャ子゛ち゛ゃぁ゛ん゛っ!!!!!!!! お゛い゛!!!!!!!!!!!!!し゛っか゛り゛し゛て゛!!!!!!!!!!!!!!」

床でのたうちまわるニャ子ちゃんを、私はただ眺めることしかできない。彼女がもう助からないのは誰が見たって明らかであるが、最後の力を振り絞って私にこう言った。

「う゛っ......リー、ちゃん、ずっと......大好き......だった......」

えっ。

消え入りそうな声で衝撃の事実を告白し、そしてそれが彼女の最期の言葉となった。どうやら私たちは、元々相思相愛だったらしい。なんてことをしてしまったんだ。どうして、どうしてこんなことに。泡を吹き出した彼女はぐったりとして動かなくなり、息絶えた。人が一人死んだというのに、私を除いて誰もそれに気づかない。雀の教授はバカみてぇな顔をして、遠くを眺めている。それに前述の通り、この学科は人気がなく生徒数が少ないわけだが、よく考えるとそもそもこの学科の現員は、私とニャ子ちゃんの二人だけなのだった。だから、この状況に気付ける人間は、誰もいない。だだっ広い講義室に、私の泣き声だけが空虚に響き渡る。あぁ、結局ニャ子ちゃんが持ってきたココアは不味かったのだろうか。直接聞こうと思っていたのに、もう生涯その願望が叶うことはない。

 ......いや、まだ件のココア自体は机の上に広げられた雀医学概論のノートと共に遺されている。私はもう、試さざるを得なかった。ペットボトルの蓋を開け、間接キスをして、ココアを頬張った。それはもう、容器が空っぽになるまで。そして今なら自信をもって言える。このココアはあまり美味しくない。だってすごくチープな甘味がするし、なんか前提的に味が薄いんですケド......。しかし私の心は、今までのどんなココアを飲んだ時よりも満ち足りていた。体がぽかぽかして、頭がぼーっとする。だが、まだ飽き足りない私は、自分が持って来た──ニャ子ちゃんの命を奪った──ココアに手を伸ばす。今私が他に出来る事は何もないから。人生で二度目の間接キス。初めて味わう毒物の味。ニャ子ちゃんはさっき、これがごく普通のココアであるかのように振舞っていたから気付かなかったけど、かなり不自然な酸味を感じる。あれも好意故の隠蔽だったのかな。こっちのココアも飲み干すと、体が徐々に痺れ始め、息が苦しくなって来る。私は白目をむいているニャ子ちゃんに抱きついて、本物のキスをした。やはり甘いココアの味がする。心もお腹もすっかり満たされた私は、ゆっくりと意識を失った。

 鬱鵺獣医科大学──日本屈指の名門国立大学。そんな学舎の一室で、雀の死体が二体発見された。解剖の結果、雀の体内からは致死量の毒物が検出され、悪質な動物虐待の可能性があるとして、大学関係者は調査を進めている。